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こどもの絵画についての覚え書き [こどもの美術]


 長年絵画指導に携わっている幼稚園で、今年度は先生方の顔ぶれが
大きく変わりました。ある程度のベテラン、中堅がごそっと抜けて、
一気に世代交代の様相です。
 しっかりした方々も残留されていますが、そうした方々から先行きに
不安の声を耳にしたこともあって、些か危惧も覚えましたので、
これまでの蓄積から導かれる指導についての考えをできるだけ
わかり易くまとめてみようと思った次第です。 
 
—こどもの絵画についての覚え書きー

[はじめに]

 私は美術大学の学生の頃より、こどもたちの美術指導にかかわってきました。
最初は自分が幼い頃から教わってきた先生の助手として、幼稚園での指導にも
携わるようになりました。大学院を修了後に美術家として活動を始めましたが
同時に、幼児期のお絵描きや工作が自身の創作に進んだ原点であったことから、
美術教育の大切さを感じていて、自分の経験を還元すると言うか、未来の世代に
引き継ぐとか、循環させていきたいという思いがありました。
 こどもたちの絵も、こどもたち自身を取り巻く家庭など周囲の環境や、
社会情勢によっても明らかに移り変わりがあるのですが、そうした中でも
ある程度普遍的で、肝要と思しき点をこの機会に少しまとめておきたいと
思いました。

[こどもの絵の発達] 
 これは必ずしも絵に限ったことではないし、目新しいたとえでもないのですが、
こどものお絵描きなどの創作表現の発達は、植物と土壌のあり方に置き換えられるかと
思います。種や球根から芽吹いた苗が良く育つための土地は、自然のままの野原が
良いとは限らない訳です。植物自体の状態とともに、土壌の性質、例えば水分量は多いか?
少ないか? pHは酸性か?アルカリ性か?とか、肥えているか否か?や、他にも雑草が
多くないか?害虫は?etc・・・。つまり天然自然が良いとは限らない、
むしろそのまま放っておいて良いことは少ない、と思っていた方が良いくらいです。

 やはり土を耕し、水分や肥料を与え、気候や温度に気を配り、成長を妨げる
雑草や害虫は除外する、という方が、美しい花、豊かな実りに繋がります。
これを指導に置き換えると、わかり易い導入や集中できる環境づくり、
制作中や完成した作品についての長所を伸ばす言葉掛け、などにあたるでしょう。
 ただ半面、手をかけ過ぎて無菌的、過保護にしてしまえば、主体性や
バイタリティーに欠ける、抵抗力の弱いものに育ってしまうという危険も
そこにはあるわけです。こうした配慮を時にクラス単位で全体的に、
あるいは時に一人の子にじっくり向き合う中で実現することは容易では
ないことです。そうした点については経験を活かして、ささやかながら
応援したいと考えています。
                             
 日頃から現場に居られる皆さんには今更でしょうが、おおよそこどもの
成長の速度は驚くべきものです。お絵描きについても正にこれが当てはまるので
あって、幼児期の数年は一生の中でも、おそらく他にない程の勢いと言えるでしょう。
少し前には出ていなかったかたちや色づかいが突然現れてきます。また一方で
そうした発達の過程は不規則、不安定です。一定の速度で延び続けていくなどと
いうことはまずなく、折々に停滞がみられることは普通ですし、それどころか退行?
ということすらあります。これまた絵に限らずですが、夏休みあけの「赤ちゃん戻り」
みたいな様子は多くの方が目の当たりにされてきていると思います。これらを踏まえて
具体的に年少・年中・年長のこどもたちのお絵描きで顕著な特徴と留意点を
まとめてみたいと思います。

[年少]
 基本的に幼児期の絵画指導では、専門的な技術向上を目指した「上手な絵」を
描かせることは最終目的ではないのです。特に、年少時の絵画指導では色やかたちが
一見するとまとまってみえるような整合性や、仕上がりの完成度を求めることを
急ぐべきではありません。優れた作品はこどもたちの知覚感性がよどみなく、
伸びやかに発揮された時に自ずと成立するものです。

 この世にうまれてまだ3年から4年の間の人の子にとって、絵とは何で、
どういうものか?どうして幼稚園でそれをやるのか?は、普通わかっていません。
かつては皆そうであった筈のこの事実を、たいてい大人は忘れています。
初めてそうした体験をして、そこからしばらくの実感や心持ちは・・・
個人差はあれ・・・私たちにはほぼ残っていないのではないでしょうか? 
にもかかわらず、大人の側は大抵「絵とはこういうもの」という思い込みを
自明のこととして、無自覚に前提にしている、つまりは「知っている対象と
かたちや色が一致していて何だかわかるもの」がまともな絵だと、上手だと、
決めつけがちです。

 「絵がある」ということを大雑把に、あえて物質的に身も蓋もない言い方をすれば、
何らかの平面的なひろがりの上に何らかの材料で、何かしらのイメージが
くっついている状態です。絵を正面からではなく、横から見たら、厚さ0点何ミリの
画用紙の上にこれまたわずかな厚さの画材がくっついたもの、です。
たかだかこうしたモノの筈がなぜ、こども自身の発育にも、教育の立場からも重要か?
といえば、それが人間にしか出来ない精神活動の産物だからであり、しかも
こども一人一人が、その時にしか出来ない表現を通して成長している証でも
あるからです。

「幼児の心は未分化〜」というのは良くいわれますが、このことは年少児の
お絵描きの場面ではわかり易くあらわれます。例えば「画用紙に筆で、
絵具を用いて動物を描く」という設定で考えてみます。この場合、彼、
または彼女の健康状態や気分は良好で、先生のお話も一応まともに届いていたと
仮定します。
 「描いて良いですよ」と言うことで、筆に絵具をつけてきて目の前の紙に、
くっつけて手を動かすと、何かしらのかたちが現れます。先生が
「好きなどうぶつをかきましょう」と言っていたので、最初は家か近所の
ワンちゃんでも思い浮かべていたとします。ワンちゃんのイメージはあるが、
その子は青色が好きだったので青を手にして手を動かし始めます。
ワンちゃん・・・と思っていましたが、塗り拡げた青い色面は海を連想させました。
そこでお魚が登場、絵具が足りないし、違う色のおサカナとかタコさんでも
描きたいので、次を取りにいって今度は赤をもってきます。乾いていない青と
重なると不思議なことに紫色。面白いのでグルグル混ぜてみます。手が滑って
塗ったばかりの画面に接触。べっとり付いちゃった絵具を画用紙の空いているところに
ぺったりとスタンプしたら、手形が写ります。こりゃ面白い!というので手形の
連続が始まる・・・さて、ワンちゃんは何処へ?既に本人にとってははるか彼方?・・・。
という感じは珍しくないです。実際の指導では、制作時間の終わり頃になって、
描きくたびれたり、飽きてきた状態のこどもたちの様子は
「ここはドコ?ワタシはだれ?」と言った感じになっているケースもよくみられる筈です。

 上の例では最初のところで描く対象として、身近な犬が先生の言うところの
動物に属すると認識している時点で理解度の高い子ということになります。
実際にはここまで達する以前の認識でひっかかることが多い筈です。
指導先でも毎年秋の指導の題材として「好きな果物」「好きな動物」がありますが、
果物の名前をあげさせるとお菓子や野菜が混じるとかは珍しくもないです。
さらに混色で偶然に生じるイメージのひろがり、とか、筆、または直接手からの感触、
ペタペタという音や、時に絵具の臭いまでが無秩序にその表現の最中にその子の
知覚感性を動かしていると考えられるのです。視覚によって一枚の絵を
まとめ上げるということを知らない、正に未分化な状態ということですが、
こどもによってはこうした運動が連続して筆を動かすたびにどんどん起こっている
とすれば、結果として「訳のわからない絵」が出現するのは当然といえるのです。

入園からまだ日の浅いうちは、そもそも言葉も通じているかわからず、
絵も何を描いているやら訳がわからないことも多いでしょう。ただしそれでも、
根気良く、注意深く観ていくと、当初たまたまその時の気分による手の運動の
痕跡にしか見えない、あるいは単に色を並べているに過ぎない、ようだったものが
やがて、自発的であれ、先生の指示であれ、必ず「何かのイメージ」
「意識で対象化した何か」にみえてくる時があるはずです。全てのこどもたちに
決まったパターンがある訳ではないですが、それまでのバラけた、羅列的なサインや
タッチに比べると、円的なかたちや、線の交差、点のまとまりといった表現として
みえてくることが多いようです。それがなにか?言葉をかけて返ってくる言葉を
聞いていきます。さらにやりとりが出来れば素晴らしいことです。時には一貫性の
ないことを言う場合もあるでしょうが構いません。そうした中からよりイメージが
拡がりそうなら関連性のあるものを描くことをアドバイスするのも良いでしょう。
一方、反応がなかったり、しばらく様子を見つつ数回同じように促しても動きが
なければ無理強いや直接手を出すことは控え、違った視点の指導に切換えます。
かたちや色のわかり易さ、整っているか否か?よりも、こどもたちの感性が
伸びやかに発揮されている絵は、色数やタッチ、ストローク(振り)の強弱などから
伝わってくる表情が豊かです。こうした制作の繰り返しの中から引き出せるものを
引き出し、前より一歩(一筆?)でも進展があれば褒めて、自信に繋げることが
なにより大切です。
                                
[年中]
 
 この時期は一人の子の中でも、また成長の過程の個人差についても、変化や違いが
大きく、つかみ難いことが多々あります。人間のかたちを例にすれば、年少時と
大差ない、丸だけみたいなものから、いわゆる頭足人もいますし、
一見ほぼ「マトモ」なものまで実に様々です。基本的に他の保育も含めた判断で
健常であるなら、幼さ、拙さについては年少のところで記したように、
一歩ずつの歩みを認めて、励ましていくことが基本です。幼いことは悪いことではなく、
例えば運動会の絵などでは、一見すると五体満足のかたちに描けていても、
みんなクローン人間のような、同じ顔で動きのない人物を並べているより、
躍動感のある頭足人の方が良い、ということになるでしょう。

 この他、二年保育と三年保育でも、様々な違いが見られます。二年保育の方が
やはり幼い子が多くなりますがその一方で、年齢相応の伸びやかで自由な感性が
発揮されることも少なくありません。三年保育の子たちも個人差はあるし、
その年ごとに特徴や個性があり、一概に言えないこともありますが、
集団の中で一年間を過ごし、小なりとはいえ社会化されています。言葉の理解度も
遥かに進んでいます。もちろん、言葉でのコミュニケーションが指導には不可欠ですから、
通じることは良いのですが半面、言葉の持つ諸刃の剣的なことに注意が必要になります。
これは実際の指導では、既に年少でみられることですが、6月の三原色での
カリキュラムの際に、準備された色をこどもたちに尋ねると、ほぼ確実に
赤、青、黄を言い当てますね。これは一応「通じる」状態です。尤も、年少さんでは
色の名前と描く時の認識の一致は確定しません(理由は先に記しました)が、
これが年中さんのある意味理解度の高い子では、カテゴライズされた色の名称に
「引っ張られる」という現象がおこります。わかり易い例だと、仮に緑と茶色が
「わかっている」として、植物のある景色が、「何色か?」と問われればこどもは
「緑と茶」と応えるのではないでしょうか?確かに大ざっぱに分ければ葉っぱは
緑の仲間で、幹や地面の土が茶色の仲間、という認識は理解できます。
しかし、緑は一つでしょうか?樹や草の種類、同じ植物でも季節や生育の具合で
異なりますね?幹も同じこと、まして言うまでもなく、土と植物は同質ではありません。
  
 ここにはたいへん重要な意味があります。文学者・大江健三郎さんの著書の中に
印象深い記述があって「人が歩いていてふと足元を見ると美しいと感じる何かが
あって立ち止まる、それは何か?良く見ると、一輪の花だった・・・。なんだ〜花か!
と思った瞬間から、人はそれ以上その美しくて歩みを止めたはずのなにかを
それ以上注視することはなくなる」といった話しが記されています。
その花がタンポポかツユクサかでも同じこと、名前がわかれば私たちは
「納得」するのです。が、実はこれは怖いことでもあるのです。私たちは
色や花の名前が、同じ言語を介して通じることを前提としないと話しが出来ませんね?
しかし見たものを「色の名」「花の名」で「くくる」また「束ねる」ということは
「わかった」と同時にそこで、感覚や思考がストップする危険をはらんでいるのです。
 
  従っていわゆるお利口さんで、ものわかりが良く、「手のかからない」
優等生タイプにこそ必要な気配りもあるのです。いかに世界が様々な色に満ちているか、
大袈裟に言えば私は、森羅万象の数だけ色はある、くらいに指導する側は認識すべき、
と思っています。まあ、そうなるとキリがないのですがせめて「野菜の色は?」と
聞いて「みどり〜」と返ってきたら「じゃあキャベツは?」「じゃあホウレン草は?」
「同じでいいのかな〜?」みたいな揺さぶりをかけることを心がけるべきでしょう。
これがこどもたちの気づきに繋がれば望ましいことですが、やはり根気が要ります、
総じて指導では最も柔軟な対応が求められる時期といえます。焦らず、ゆったりと
構えて受け止めていく態度が大切に思います。

 具体例では一学期の早い時期に本物の咲いている花々を見に行ってから描く
カリキュラムがあると思いますが、ここで花を見てから描くことは、
年長で行う活けた花をみて描く、いわゆる観察画とは異なるものです。咲く花の美しさ、
華やかさ、あるいは生命力の輝きやエネルギーでも、季節感や等々、どのような
印象でも良いのですが、そこから何かが感性に伝わって表現に繋がることを大切にします。
強いて言えばむしろ、体験画に近いものと言えるかも知れませんが、少なくとも
「花の絵」を上手に描くことは目的としていません。

                               
[年長]
 
 こどもたちにとって、幼稚園の仕上げの時期となる年長ですが、彼ら彼女らの
長い成長期の中ではようやくスタートと言うところでもあります。絵画指導に関しては、
おおよそ言葉も通じるし、良し悪しはともかく「お絵描き」と聞けば何をやるのか?は、
こどもたちもすり込まれています。全般的な理解度も高まっていく中では言葉掛けも
有効で、特に意欲的なこどもは著しい進歩を示します。ひとクラス全体をまんべんなく、
というのは難しいことですが、それでも年中年少よりは成果も目に見え易いでしょう。
同時に年中の項で述べた「わかった!」と思った途端の思考停止、感覚鈍麻への注意は
一層必要になります。当たり前と思い込んで、外界からの情報に疑問を持たなくなっている
知覚への刺激は不可欠です。赤、青、黄の三原色と白、黒に限っても、世の中には
どれくらい種類があるのか?具体的な事例に則して投げかけて「良く見る、工夫する」
ことが、楽しみつつ出来るように促し、励ましていく姿勢でいきたいものです。
 具体的なカリキュラムとして年度始は、比較的誰でも作品らしくなり易く、
それが自信にも繋がることを優先的に考えて題材を選んでいます。夏以降は
「野菜・果物」「花」といった観察画、「大きな樹」や「山」のような想像画
「遠足」「運動会」などの体験画、更にコラージュやフロッタージュなどの偶然性を
活かした表現などを組み合わせていきますが、これは作品を「作り上げていく」方向で
充実度を高めることと、同時に「当たり前になり過ぎたもの」を新たな手法や題材の
表現によって壊す、乗り越える、ということを目指しています。例として上げるなら、
年長が実際の「花」を観て描くことの意味は当然年中のそれと異なります。
年長児では先入観なく、目の前の花を観察し、描いてみることで思い込みの枠から
抜け出し、新たな発見のあることを重視します。毎年言っていることですが、
多くの子が花の面は見ても裏側や葉、茎などへは注意を払いません。
「みているようでみていない、みようとしていない」ことに気づいてもらいたい
のです。
 年度後半に向けて様々なコンクールやコンペ、さらに園の作品展と忙しさが増し、
舵取りは難しくなるでしょうが、最も大切なことは、それらは目先の結果や
みてくれではなく、こどもたち自身の達成感や自信に繋がってこそ意義がある、
ということを忘れずにいてください。      
 
 まとめとしては年少、中、長の各一年は、こども一人一人が精一杯の知覚感性と
体力を持って世界と向き合い、格闘している貴重な時間であり、そこでの創作は
人間の可能性そのものといって差し支えのない意味と価値があるのです。
 
                                  
 
 
2017年5月
 伊東 直昭
E-mail:mymykv@ybb.ne.jp 

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symplexus

子供達の「世界」は,何か不思議な謎めいた魅力に満ちていると
思える時があります.楽しいだけではなく深く重い深淵をも含むような.
”こころとは,わたしの手元に残ってしまったもの,なのだ.そして,わたしのこころに残されたままのこのこころは,重く悲しい.引き潮の
思いに満たされて重い(恋する者と子供だけが重いこころをもつのだ).”
これはロラン・バルトの言葉です. 子供は不完全な大人では無い何か
なんですね.
by symplexus (2017-07-10 22:07) 

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